文章表現の授業です

専門学校や大学で担当している「国語表現法」「日本語表現」などといった授業の覚え書き

事実と意見の区別は無意味なのか

論理的な文章を書くことで最も大切なのは、「事実」と「意見」を区別すること、これに尽きます。

「事実」と「意見」の区別を授業で取り上げるとき、よくいくつかの文を示して「事実」と「意見」を区別させるということをします。たとえば、

  1. オリンピック閉会式でのマリオのサプライズは素晴らしかった。
  2. オリンピック閉会式で安倍総理がマリオに扮するサプライズがあった。

という2つの文について、どちらが「事実」でどちらが「意見」かを考えるというものです。1は「素晴らしい」ということ自体は確認できず、素晴らしくないと思う人もいるわけなので書き手の「意見」であり、2はそういうサプライズがあったことを確認することができるから「事実」というわけです。

私は文章表現の授業でこの「事実」と「意見」の区別を必ず取り上げます。「事実」と「意見」を区別するという姿勢は、自分の書くものに責任を持つことに繋がるからです。

医療系の専門学校の授業では、「意見」で済ませるのではなく正確で具体的な「事実」を記録することを練習します。ちゃんとした医療者は患者さんについての記録を「とても元気そうだった」だけで済ませないでしょう。「体温36.5℃、脈拍75……」などと具体的なデータを記録するはずです。「元気そう」というのは素人でも書ける「意見」です。そう見えただけで、容態が急変するかもしれません。

大学の授業でレポートの書き方を指導するときも「事実」と「意見」の区別を重視します。誠実な書き手の「意見」は、「事実」を積み上げた正確な記録から導かれています。そういう書き手は他人の意見についても、引用という「事実」の形で記していますし、確かめることのできない事象について「あります」と「事実」の形で言い切ったりはしないものです。

masudanoriko.hatenablog.com

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しかし、「事実」と「意見」の区別は無意味だという人もいます。例えば、『現代教育科学』には宇佐見寛氏の「「事実と意見の区別」は有害無益である」という連載が掲載されています。 私はこれからも「事実」と「意見」の区別を取り上げるつもりですので、この連載に記された例から私も出会ったいくつかのパターンを取り上げて、「事実」と「意見」の区別が無意味ではないことを示しておこうと思います。

文そのものを区別する

 教室で、教師から紙を配られた。何か書かれている。「どれが事実ですか。」と教師は問う。

 大学生時代の未熟な私でも「紙の上に黒い線や点やら有ります。それが事実です。」くらいの答えはしただろう。(「「事実と意見の区別」は有害無益である」1)

これと同じようなことを私も学生さんに言われたことがあります。「文について判断して下さい」と答えました。

文脈に依存する表現には適応しない

「1たす1は2だ。」……これは事実か。「区別」論者は、事実だと言うだろう*1

 私は言おう。いや、違う。意見なのだ。「一人口は食えないが、二人口は食える。」などと言って身を固めるように勧めた人がいる。それに対する反対意見なのである。「「事実と意見の区別」は有害無益である」2)

こういうパターンについては、文脈に関係なく「事実」か「意見」かの判断を求めます。「事実」と「意見」の区別で扱う文は記録やレポート等の論理的な文であり、文学は対象としていないので、「1たす1は2だ。」についてのみ区別してもらいます。

事実には偽の事実もある

 先の例4・「寒暖計を見ると、もう三十℃もある」にもどる。 実は三十度ではなく、二十九度五分だったとする。この言を発した人物は、うそを言ったのか。事実ではないことを言ったのか。「「事実と意見の区別」は有害無益である」2)

この場合は「事実」、正確には「偽の事実」です。人間は間違うことがあり、データの数字を書き間違うこともあります。数字だけではなく、内容そのものが間違っていることもあります。例えば

蛍は腐った草から生まれる。

も「事実」(「偽の事実」)を表す文です。蛍が腐草から発生するというのは科学的に否定されていますが、江戸時代の人々にとっては真実でした。当時の人は「事実」として書いたでしょうし、現在も文としては「事実」を表す文です。同様に、例えば

東京ディズニーランドは東京都にある。

という文も、「事実」を表す文です。間違っていると思うのは実は千葉にあるのを知っているからで、ディズニーランドにまったく興味のない人*2はどこにあるのか知りません。

つまり、「事実」を表す文かどうかは、内容ではなく確かめられる形で書いてあるかどうかで判断します。この、確かめられる形で記録することが、論理的な文章を書くために重要なことなのです。間違っていることが確かめられれば、正確に書き直すことができるからです*3

事実には幅がある

事実を表している文だと判断する際、悩ましいのが形容詞です。

……こんな論法をとるならば、「ドアを開けて外に出たら、息が白く見えた。」も人によって異なる。(略)あの息が見える状態を「白い」という形容詞でとらえるかどうかも人による。「「事実と意見の区別」は有害無益である」3)

色を伝えるのが難しいことについては過去の記事にも書きました。

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赤に青を少しずつ混ぜていったとき、どこからを紫と呼ぶかは人によって異なります。青と緑の中間色について青緑という語彙でしか表現しない人もいれば、緑青、青磁、孔雀などと区別する人もいます。誰にでも同じ色に見えそうな純色でも、素材の質感によって見え方が変わってきます。人によって判断が異なってくる可能性があるので、色について述べた文を「事実」を述べたものというのは難しい面があります。

しかし、色は事実を記録する上で重要なデータなので、事実を表す文で記される実験記録などでも多用されています。たとえば、化学の実験で沈殿物の記録をするときには「白色」だけでなく「褐色」(Ag2O)・赤褐色(Fe(OH)3)・「青白色」(Cu(OH)2)・「淡緑色」(Fe(OH)2)などという色名が使われています。このように、その文を書く場の共通の認識、つまり「事実」があると考えればよいでしょう。

 色の他、幅がある表現には、形容詞の他に副詞の「およそ」「約」などがあります。

 「円周率は、約3.14である。」(前出『論理的思考力を育てるドリル・第2集』一五四ページ)この箇所の筆者によれば、この文は「事実」なのだそうである。

 違う。「意見」である。「反論」が、いろいろ成り立つからである。「「事実と意見の区別」は有害無益である」4)

この場合、3.14を「約」と言うのが共通の認識かどうかということになります。私が問題集を作るのならわざわざこういうのを入れませんが、円周率は誰でも計算して求めることができますし、現代の一般的な人々は求められた数字を「約3.14」だとするのに違和感はないのではないかと思います*4

何のための区別か

「事実」と「意見」の区別を取り上げる際、私ははっきりと区別できて問題がなさそうなものしか使いません。というのも、すべての文を「事実」と「意見」に区別する必要はないと考えているからです。「事実」と「意見」という概念は、具体的なデータを記録する習慣を付けるために理解すべき内容であり、論理的な文章を書くためのツールだからです。

「事実」と「意見」については、まずわかりやすいシンプルな例文を取り上げてしっかり区別ができるようにし、幅がある事実に関しては各専門分野で身に付けていくのがよいと思います。

「事実」と「意見」を区別するという姿勢が身に付いていない人は、往々にして自分の書くものに責任を持っていません。不確かな情報や自分の推測を「事実」であるかのように言い切って並べ、無責任な意見に繋げています。ネット上には不必要に不安や恐怖を煽ったり、論理的には有り得ないことをもっともらしく述べたりする酷い文章が溢れています。こういった文章を見ても、「事実」と「意見」の区別を学ぶことがいかに重要なのかがわかります。

*1:二進法なら2にならないので、情報が足りない文であると思う。

*2:私です。

*3:ただ「寒暖計を見ると、もう三十℃もある」の文は「もう」「も」に書き手の「意見」が紛れているので、私が出題するなら「寒暖計は三十度を指している。」とします。

*4:数学の文は事実を表す文の用例にサクッと使いがちですが実は使いにくく、つきつめていくと三角形も直線も存在しないことになりますが長くなるので別の機会に。