これまで文章表現の授業では、もっぱら記録や報告、レポートや自己アピール文などを取り上げてきました。
そして授業では、こういうタイプの文章は正しいトレーニングをすれば誰でも書けると学生を勇気づけてきました。
しかし、逆をいえばこのタイプではない文章、エッセイや小説、韻文は“誰でも書ける”とは言い難いと思っています。私は僅かですがこちらのタイプの文章で原稿料を頂いています。それをどのように書いているかと尋ねられても、上手く説明できません。
論理的な文章の書き方の授業はできても、文学的な文章ではできない。そういう文章の書き方は教えられないと思っていました。
そんな私がいま、自己を表現する文章を書く授業を担当しています。リーダーとなる先生が考え抜かれたプログラムを少人数クラスで行う担当者の1人です。こういう文章の書き方は教えられないと思ってきましたが、その考えは根本から覆されました。教えるのではなく、見守る。自分を表現する管のようなものを一緒に育てていくという感覚です。
学生さんたちは自分をさらけ出して書いてくれますので(授業の初めに「自分のことを書くのが嫌な人はフェイクでいい、書き方の練習だけしてください」と断っています)、上から目線で消費してしまうようなことはあってはなりません。こちらも必死で対等にいようと、つい熱くなってしまいます。
この授業を担当するのは、私にとって最適なタイミングでした。
1つは、短歌の結社誌でエッセイ欄を担当していることです。原稿料をもらう商品として書くのではなく、純粋に自己表現をする文章の大切さを知りました。
もう1つは、初めて卒論指導をして、論理的な文章を書くためには自己表現をする文章も書ける方がいいのではないかと思ったことです。客観的であるべき論文には主観的な表現を用いるべきではありませんが、これはとても難しい。論文とは別の場所で納得できるまで自己表現できてはじめて、感情を交えずに純粋に論理だけの文章を書けるのではないかと考えるようになりました。
そんなわけでいまは、もう1つの文章表現の授業で、学生さんたちが自分の心を世界に向けて表現する“管”を育てていくのを見守っています。